池乃めだか魚万桜エアポートリムジンバス江戸川乱歩
エフエム守口大枝公園大塩平八郎とぴっくすへ表紙へ


い 池乃めだか

池乃めだかがやってきた

 池乃めだかがやってきた。浜村淳と奇麗なおねえちゃんとテレビカメラと沢山の野次馬を引き連れて。しかも私の勤める会社へ。
 何かがやってくるとは叔父である社長から聞いていたが、まさかこんなに大層なことになるとは思ってもいなかった。池乃めだかと叔父は小学校の同級生。生まれ育った土居のまちを訪問するという関西テレビの企画であった。土居に住んでいたが引っ越してしまったので、同級生で地元に残っている叔父を訪ねて私の勤める会社にやってきたのだ。
 タレントは普段は偉そうにしているという話をよく耳にするが池乃めだかは記念写真を撮る時も穏やかで、腰が低い人でした。(背も確かに目茶苦茶低かったが……)
 吉本興業での苦労話をもっと沢山聞きたかったが、忙しそうだったのであまり聞けなかったのが残念であった。後日、叔父はテレビによく映っていたが、私はどこにも映っていなかった。テレビのフレームの外側に野次馬と一緒に私はいた。

(篠原拓男)

池乃めだか魚万桜エアポートリムジンバス江戸川乱歩
エフエム守口大枝公園大塩平八郎あ行の最初へとぴっくすへ表紙へ


う 魚万楼

聞いてよ!!我が家の桐の木のいわれさる

 文禄堤の京都寄りに位置する私の実家の庭に大きな『桐の木』が昔からある。毎年、春になるとその大きな『桐の木』に薄紫色の花がいっぱいに咲くのだ。国道一号線を京都から来たら、守口警察署の手前のマクドナルドを左に曲がったところの石垣の上にね。その『桐の木』の下でいつもシートベルト着用の取り締まりを守口警察がやっているので、捕まったことのある人はすぐわかる場所だよ。
 その桐の花が満開に咲く頃、朝になると道路にその美しい薄紫色の花がいっぱい落ちる。母は、毎朝その庭先を掃除するのだが、聞くとその桐の花を遠くから見に来たり、また、落ちた花を早朝から拾い集めに来る人もいるとか。知る人ぞ知る『桐の木』というわけである。
 そんな我が家の『桐の木』、実は昔、守口が宿場町だった頃にあった旅篭『魚万楼』の名残の一つと言えるのである。つまり、その『桐の木』の横にそびえ立つMIDビルは、元々『魚万楼』のあったところであり、MIDビルが建つ前には長年養生塀で囲まれて草むらのまま置かれてありました。三十年以上前の私の小学生の頃の記憶では、草むらの中に庭園灯篭も残っていたし、池跡らしきところも残っていました。そんな『魚万楼』の中にあったと思われる我が家の『桐の木』は私達よりずっと昔から守口のまちを、また、そこを行き交うたくさんの人々を見続けているわけである。そう考えると我が家の『桐の木』に言ってやりたい。
「毎年、綺麗な花をいっぱい咲かせてくれてありがとう。長生きしてや!!」と。
 是非、来春五月始めに『桐の木』見物にどうぞお越し下さい。

(岡村晃明)

池乃めだか魚万桜エアポートリムジンバス江戸川乱歩
エフエム守口大枝公園大塩平八郎あ行の最初へとぴっくすへ表紙へ


え エアポートリムジンバス

憧れのエアポートリムジンバスさる

 1994年、関西国際空港開港に伴い、わが守口市に登場した『エアポートリムジンバス』。現在京阪守口市駅前より一日14便(土、日は15便)運行されております。ますます盛んになる海外旅行ブームの中、すでに利用された方も多いと思います。
 現在大阪では、わが守口市・大阪駅前・上本町・大阪南港・難波・京橋OBP等から運行中です。京阪守口市駅前から約80分。重い荷物を転がす必要もなく、煩わしい乗り換えもなく、一直線に関空の玄関まで運んでくれます。
 私も11月に新婚旅行で利用させて頂きましたが、とても楽で快適でした。しかし、その後はなかなか利用する機会がありません。仕事中に京阪守口市駅前を通りますが、スーツケースを転がして旅行に向かう人をよく見かけます。「ええなぁ、どこいくんやろ」と思うことがあります。
 私が次に、この『エアポートリムジンバス』に乗って海外旅行に行く予定は、今のところありません……。

(満潮 功)

池乃めだか魚万桜エアポートリムジンバス江戸川乱歩
エフエム守口大枝公園大塩平八郎あ行の最初へとぴっくすへ表紙へ


え 江戸川乱歩

名探偵明智小五郎は守口生まれさる

 推理小説の大家『江戸川乱歩』の映画として『RAMPO』が上映されて話題となり、現在アメリカでも邦画としては最大規模で上映されていますが、『江戸川乱歩』が若いころ守口に住んでいたことはご存じですか。
 乱歩は、大正13年(1924年)に守口の八島町に転居して、書斎付住居建物に一時住んでおり、初期の乱歩の名作がその書斎で書かれました。その内の一作である『D坂の殺人事件』には初めて素人探偵『明智小五郎』が登場しています。その意味では守口は明智小五郎が誕生した地です。この建物は守口市河原町在住の医師大野正先生が現在所有されていますが、現在大野先生は自分が生まれ育った家であるということによる思い入れから独力で乱歩の資料館として保存されています。中を見せていただきましたが、『明智小五郎』が生まれた書斎も当時のままです。
 この小説の中では守口市の京阪電鉄の柵がトリックのヒントになったと言われています。一度読んでみられたらいかがですか。

(岡崎隆彦)

池乃めだか魚万桜エアポートリムジンバス江戸川乱歩
エフエム守口大枝公園大塩平八郎あ行の最初へとぴっくすへ表紙へ


え エフエムもりぐち

守口にHANAKOありさる

 おらがまちの放送局FMもりぐち(愛称HANAKO)が、平成五年七月より放送をスタートするという話はわりと前から耳にしており、市民にも番組参加を呼びかけているということで、守口を本拠地に『JACK IN THE BOX』と名乗って音楽制作活動(CDアルバム二枚好評発売中です。また、CM・社歌・イメージソング制作承ります。宣伝でした)をしている我々としてはぜひお近づきになりたいと思っていました。
 ご縁があって我々のリーダーがHANAKOの田中本部長さんに、番組の中で我々のCDを流して欲しいとお願いする機会に恵まれました。すると本部長さんは「流して欲しいなんか言わんでも、自分らで番組やったらええやんか」との驚きのお答え。その後はトントン拍子に話が進み、毎週土曜日に2時間の音楽番組を内容もすべて我々にお任せという破格の条件で担当させて頂けるという予想外の展開になりました。タイトルもズバリ『JACK IN THE BOX』。平成6年4月に終了しましたが、毎週一人のアーティストにスポットを当てて曲紹介だけでなくその人物像・音楽性を深く掘り下げるメインのコーナー、またメンバー自ら自慢の腕を披露するスタジオライブ、数あるヒット曲のパクリを厳しく暴露するコーナー等バラエティに富んだ内容だったと自負しております。
 ごく普通の感性(出たがり・メディア大好き)を持つ番組メンバー全員電波に自分達が主役として乗るという事実にときめきを感じ、スタートに向けて大変張り切っておりました。
 ところが……。ここでの話題は既に解決済みの問題で今や完全に昔話になっています。

 その一…試験放送が始まりましたので、職場でラジオをつけてみました。「サーッ…」。勤め先は京阪守口駅前のビルの四階角部屋です。アンテナの向きを変えてみても、「サーッ…」。良く聴こえません。窓を開けてアンテナが外に出るようにしました。やっと何かの音楽が聴こえました。一言、「雨の日は聴けんな……」
 当初コミュニティ放送局の出力は法律で上限が決まっており、場所によっては同じようなことがあったそうです。番組メンバーの一人にこの話をすると、「僕、大阪城公園の横で車停めてた時に聴いたけどちゃんと聴こえてましたよ」とぬかしてくれました。守口のド真ん中は大阪城公園でサボっている営業マンのカーラジオに敗れました。「許せん!!」  その後平成七年四月に法律改正による出力の大幅アップがありこの問題は多いに改善されました。めでたし。

 その二…番組開始前にリハーサルがあり、初めてHANAKOを訪れる日がやってきました。メンバーのほとんどにとって初めての放送局であり、少々華やいだ気分を楽しんでいました。一号線から二度三度道を曲がり随分細い車一台がやっと通れる道に入りました。(後日あるメンバーは左のミラーを電柱にこすってしまい、今もその跡が残っています)そして右前方に『ちかんに注意』の看板が!!と思ったら、それはとっても地味なHANAKOの目印看板でした。そこを右折した前方に見えた建物が元集会所だった外観そのままのHANAKO様でした。中に入ると一階は応接室、トイレも含めてレトロまで行かない中途半端な古さをたたえ、二階のスタジオにたどり着くまではまるで寂れた観光地の案内事務所にいるようで、先程までの華やいだ気分はどこへやら一同地味な気分になってしまいました。「何かちゃうで……」
 それこそ日本各地の自治体より注目の的であり、広く市民の参加を呼びかけているHANAKOが、訪れる人を地味な気分にさせたらあかんのでは?と、諸事情は無視して思ったわけです。似た時期に開局した函館や葉山のFM局等に比べて守口というところはネームバリューもわかりやすい特徴や売りも無いところでしょうから余計その印象が強かったのですが。何も金田町自体が悪いところだと言っているのではありませんが、FM局の場所には向いていないことは確かです。訪れた人が「また来たいな」と思えるようなそんなHANAKOであって欲しかったので。
 また番組開始後のある日私は、車で来ていたメンバーが用事で先に帰った為に守口駅前の勤め先まで自力で帰る羽目になり、京阪門真市駅まで歩いたことがありますが、その独りぼっちの長い道のりがわりと悲しかったです。「自転車落ちてないかな……」
 平成七年三月に京阪百貨店横の文化センターに移転し、随分印象が良くなりました。訪れる人はもちろん、何よりそこで働いておられる方の気分もかなり違うのではないかと勝手に思っています。近くに人が集まっている場所であり、ちょっと寄って行くことができるHANAKOになりました。めでたしめでたし。

 ところでHANAKOにはいろんな独自の番組もありそれぞれ楽しめますが、私が一番好きなのはローカル色豊かな数々のCMです。中でも『焼肉のやっさん』は大いに笑かしてもらいましたし、小学校の給食に出ていた『京阪牛乳』の昭和40年代を思わせるCMソングには涙を誘われます。他にも色々オモロイのがありますのでお気に入りを見つけてください。大変嬉しいことに私が作曲?させて頂いたCMソングもいくつか流れています。

 このようにHANAKOは地域住民に門戸を開放しています。ほんとにちょっとのぞいてみてはいかがですか?優しいお兄さんお姉さん方が迎えてくれるはずです。誰もが持ってる『出たがり精神』を満たしてくれる貴重な場。それがFM HANAKO。個人的にHANAKOには人々にとっての『祭り・縁日』の様な存在であって欲しいと思います。あの老若男女、マジメも不良も一緒くたに包み込んでいる『晴れの場』に。

(清水英男)

池乃めだか魚万桜エアポートリムジンバス江戸川乱歩
エフエム守口大枝公園大塩平八郎あ行の最初へとぴっくすへ表紙へ


お 大枝公園

桜の樹の下に棲む魔物さる

 『花』といえば桜の花をさすほど日本人は古来より桜の花を愛でてきました。3月から4月にかけて咲き誇る桜の花は、それは美しく、まさの花の王のごとく堂々たる荘厳さで私たちを魅了します。また、その花びらは塩漬にされて婚礼などのおめでたい席で桜湯として用い、葉っぱは桜餅に、樹皮は咳止薬に使用されるなど、人々の生活の中にまで深くかかわっています。桜の華々しさからサクラガイ、サクラエビ、サクラダイなど独特の呼称を用いて参りました。
 守口市にも桜の名所がございます。桃町緑道・下島公園など幾箇所ありますが、本数もさることながら見事な枝ぶりの桜が咲く名所といえば何と言っても大枝公園をおいて他は無いでしょう。(異論はあるでしょうが……)
 その大枝公園も桜のシーズンともなると昼夜わかたず多くの老若男女が桜の樹の下に集い、そこかしこで桜の花をたてまつるための宴を催しています。
 お花見です。
 私は朝、公園の横にある整備された舗道を通ると、垣根越しに宴の残骸を発見します。それを見ると前夜の盛り上がりが容易に空想できます。人々は気の合う仲間と酒を酌み交わして浮き世の憂さを晴らし、時のたつのを忘れるまで痛飲するのでしょう。
 例えば、このように。木に耿々とランプを吊し昼間のように明るくし、約10名が車座になっております。かなりの酒量なのでしょうか、ほうぼうにビールの空缶やお酒の瓶が散乱しております。突然、男が立ち上がって踊りを始めました。変な手つきと腰つきに加えてリズム感を無視した足の動き。恐らく彼は無意識のうちに踊っているに違いありません、桜の精霊によって操り人形のように動かされているのでしょう。一夜明けても彼は踊りについて全く覚えはないし、相席した人から事のいきさつを聞いても信じないでしょう。彼は言う。「桜の樹の下に棲む魔物に踊らされたんだ」と。公園の横を通るたびに私はこの様に空想します。
 桜の花は太古より私たちを見続けております。来年も、さらにその先も人々は連綿とこの様な光景を飽くことなく繰り返すでしょうが、桜の樹は私達を許してくれるでしょう。なぜなら、我々が愛してやまない桜の樹ですから。

(辻本卓郎)

池乃めだか魚万桜エアポートリムジンバス江戸川乱歩
エフエム守口大枝公園大塩平八郎あ行の最初へとぴっくすへ表紙へ


お 大塩平八郎

大塩平八郎と白井家さる

 龍田通は昔は守口宿の中心で、現在の日通の建物のあるところに大名や幕府の役人が泊まる本陣があり、その斜め向かいの吉田さんのところが問屋場でした。八島交差点のところが高札場で立札が六枚あり、その前に白井家がありました。また、白井家の隠居所で大塩平八郎がここで守口近郷の農民達に講義をしたところとして知られているのが大塩書院です。
 大塩平八郎は大坂(当時は『大阪』ではありません)の東町奉行所の与力(よりき、奉行について同心を指揮し奉行を助ける職)で、江戸時代の有名な陽明学の学者としても知られていますが、腐敗した幕府や商人を糾弾して天保8年(1837年)に大坂で反乱の挙兵をしたことでも有名です。反乱自体はすぐに鎮圧されましたが、幕府に大きな衝撃を与え幕府瓦解の動きを早めたとも言われています。
 白井家の主人、孝右衛門は文政八年(1825年)に平八郎の門下となった熱心な門弟で、大学頭林家の財政援助や洗心洞(平八郎の学塾)の賄い等、また挙兵に際しては多くの農民を動員しました。また、息子の彦右衛門を幼時より入門させ、内弟子として寄宿させるほどでした。
 白井家は当主が代々彦右衛門を名乗っていましたが、この時孝右衛門はすでに隠居して息子が彦右衛門を名乗っていました。また、享保の頃(1720年頃)より古手屋を営み、当時は古手屋彦右衛門と名乗り、天明の頃(一七八〇年頃)になって白井彦右衛門と名乗っています。孝右衛門の頃は身分は百姓であって、古手屋と質屋を営んでいました。そして、その居宅は定紋付きの総瓦葺で土蔵もあり小門のような木戸を構えた大邸宅で、宅地内には溜池もあり市場町の片側をほとんど占めていたと言われています。
 現在の白井家は当時の漬け物小屋を改造したものと言われています。白井家の松の木を切って大砲を二挺作っており、明治末までその枯れた株があって直径約六尺(約1.8メートル)あったそうです。

(岡崎隆彦)

池乃めだか魚万桜エアポートリムジンバス江戸川乱歩
エフエム守口大枝公園大塩平八郎あ行の最初へとぴっくすへ表紙へ