守口市
守口市は平成8年(1996年)で市制50周年を迎えます。
ということで本日は守口市は何故守口市という名前なんだという皆様の素朴な疑問にお答えしたいと思います。(誰もそんなこと疑問に思てへんて)
さて『日本地名大事典』によりますと「市名は江戸時代、京街道(東海道)の宿として賑い、その後も当地域の中心であった守口町に由来する」とあります。明治22年(1889年)の町村制施行により守口町・三郷村・庭窪村が成立しましたが、昭和11年(1936年)三郷村が町制施行で三郷町となり、昭和21年(1946年)、守口町・三郷町が合併して守口市となりました。このことは第二次世界大戦後、日本で初めて生まれた市であるということで記憶しておいて下さい。戦後日本の50年はまさに守口の50年と言っても過言ではありません。(なんのこっちゃ)
さてさて、昭和23年(1948年)に庭窪村が町制施行で庭窪町に。そして昭和32年(1957年)に守口市に庭窪町を編入して現在に至っています。つまり、守口と三郷と庭窪の三地域がくっついて市になったわけですが、一時の太陽神戸三井銀行のように守口三郷庭窪市にすると長ったらしいので、一番知名度の高い守口を残して守口市となったわけです。(ほんまかいな)
それでは守口という地名はいつ頃から使われていたのでしょうか。調べてみますとありました、ありました。『守口市史』によりますと「室町期から見える地名。河内国茨田郡のうち。『経覚私要抄』の享徳3年(1453)正月八日条に大庭関に関する記事があり、『孫弥五郎森口ニ住国之間』と見える。〜略〜『細川両家記』には永禄3年6月29日に『大夫殿衆は同守口へ』と見える。また『兼見卿記』の天正4年5月14日条に『下着森口』とあり、天正11年8月29日条にも『今夜森口ニ一宿』と見える」
また『日本地名大事典』によりますと、「以上のほか『応永記』に『森口城』、『長興宿禰記』に『守口城』、『細川両家記』に『守口』がみえるが、後述のように、『鹿苑日録』『舜旧記』の表記も『森口』なので元来の表記は『森口』であったとみられる」とあります。
ここで興味を持つのは『守口』が昔『森口』と書かれていたということでしょう。違う書には『杜口』とも記されていたことがあるようです。
その昔『モリグチ』が『森口』と表記されていたのが、やがて『守口』と表記されるようになったのか。それとも『モリグチ』は昔から『守口』で『森口』や『杜口』は間違いだったのか。はたまた『モリグチ』は昔、『守口』でも『森口』でも『杜口』でも何でもありだったのかどうかについては正直なところわからないらしいですが、『守口は昔森口だった』説が有力なのはこの二つの説があるからだそうです。紹介しましょう。
昔佐太一番付近を森村と称したと言われている。このことは当地が農耕地として発展する以前、このあたりに森林が生い茂り、森のあるところを森村と称し、その森林に至る入り口付近を森口と称したのではないか。
当地はその昔、緑深い森林地であったと言われている。当地南方に千林・森小路など森林に関連する地名があるので当地はその入り口と理解されていたのではないか。
うーん、なる程、どちらも説得力のある説ですね。
いずれにせよ最終的に『モリグチ』は『守口』となったわけですが、それなら『森口』や『杜口』はどうなってしまったのでしょうか。いつ、どこで、誰が『モリグチ』は『守口』だと決めたのでしょうか。このことについては有力な説さえもありませんので、不肖私が有力な説を皆様に発表いたしましょう。(やめとけー、きさま、何様のつもりじゃあ)
恐らくその昔、この地が『モリグチ』と呼ばれ始めた頃は『森口』と表記するのが正しかったと思われます。ところが、当地がこの立地条件から京と大坂を結ぶ水陸交通の要所として発展し、
旅人の往来が激しくなってまいりますと、旅人の何人かにひとりは手紙を書いたり日記をつけたりしますわね。(書くということにしておいて下さい。でないとこの説は成り立ちませんので)そこで手紙を書く時や日記をつける時に『モリグチ』はどう表記するのか知らん人やったら宿屋や茶店で聞くわけです。ところが大らかでええかげんなモリグチ人は「そんなもん知りまっかいな」
とか「そんな難しいこと聞かんといて。それよりまあ一杯どうでっか」とか何とか言うてたに違いないと思われます。(ご先祖様すみません)困った旅人はしょうがないので好き勝手に漢字を当てはめました。それが『森口』であり『杜口』であり『守口』だった訳です。こうして『モリグチ』の表記は混乱時代を迎えました。(ほんまかいな)
ところが元和2年(1616年)徳川幕府から「おまえらの村も交通の要所として随分と栄えて来たので幕府としてはこの地を宿場としてこれから色々とひいきにしてやる。ついてはおまえらの村は『森口』と書いたり『杜口』と書いたり『守口』と書いたりしてややこしいのでこれを機会にどれかひとつに決めとけ。わかったな」と言われたのでさあ大変。村の偉いさん達が集まって話をし始めました。
「おい、どうすんねん」 「どうするちゅうても、お上が言うてきてんからどれかにせなあかんで」
「そやけどもともとは森口って書いててんから、ほんまは森口ですって言うたらええやんか」
「いや、ちょっと待ち。前から思ててんけど森口も昔とちごうて随分と都会になってきたやろ」
「そやな、大坂っぽくなってきたな」 「そやのに森口っちゅうたらなんや田舎臭い感じやろ」
「そう言われればそやなあ。なんか木ィばっかりっちゅう感じやな』 「そやろ。これからはハイカラなイメージが大事やで」
「うん」 「ええ機会やからここはひとつハイカラな感じで守口にしてみではどないやろ」
「そやな、そのほうが都会的でかっこええかもしれんな」 とかなんとかで『森口』は『守口』になったのではないでしょうか。(しまいに怒られるで)
時は過ぎて今。今も守口は交通の要所として人の往来の激しい地域です。それにしてもあの時『モリグチ』を『森口』にしていたら、もっと人に優しい緑豊かなまちになっていたかもしれませんね。ちょっと残念。
(水谷治人)
守口市
私の家は旧守口町にあり、家の裏の道は昔、用水路だったそうです。その用水路を越えると旧三郷村になります。5才の時にその家に引っ越してきた訳ですが、なかなか近所の子と親しくなれませんでした。裏通りの子とはすぐに仲良しになることができたのに、表通りの子はしばらくよそよそしかったのです。
年月が経ってから判ったのですが、私の家が建つ前は空き地で地域の盆踊りも開催する遊び場だったそうです。そこを乗っ取った私が気に入らなかったそうです。しかもそこは旧守口町の住民が使用する空地で、僅か2〜3メートル隔てた旧三郷村の住民は参加できなかったそうです。なんという古き縄張り意識でしょう。
表通りと裏通りの子は一緒に遊ぶことはありませんでしたが、私はコウモリのようにどちらに片寄ることもなく遊んでいました。
日が過ぎて小学校へ通うようになり表通りと裏通りの子は別々の小学校へ通学し、いつしか裏通りの子との交流も薄れてしまいました。村の境界は今も子供達にとって存在するのでしょうか。
(篠原拓男)
守口市
私達は守口市に住んでいます。その守口市をちょっと変わった視点で見ると新たな発見や楽しさが湧いてくるかもしれません。そんなこんなを綴ってみたいと思います。
皆さんは守口市に幾つの町名があると思いますか?住んでおられる町や隣町、親しい友人の住む町、会社や事務所のある町などを思い浮かべると思います。個人差はあるでしょうがせいぜい20程度、多い方でも五十位ではないでしょうか。50音順でアの暁町から始まり、ラの来迎寺まで全部で何と78あります。丁目をひとつの単位と考えるのならば全部で173もあります。紙面の都合上全てを掲載することができないのが残念です。これからの文章を読んで戴ければ何ケ所か町名が登場しますが、詳しく知りたい方は市役所まで。
守口市の面積は現在12.72平方キロメートルですから、町単位の平均面積は約163.08平方メートル、さらに丁目単位に区切ると約73.53平方メートルとなります。では、ここに守口市の人口を当てはめてみますと町単位の平均人口は2026人、丁目単位の平均人口は914人となります。かつて守口市は人口密度において全国トップレベルの超過密都市でした、昨今、守口は通過都市と叫ばれ、人口の伸び率もマイナス数値でありますが、この計算結果を見てとれる限りでは今でもそこそこ人口密度の高い都市なのだなと実感します。
人口密度に触れたところで、こんどは守口市の町で最も多くの人が住んでいるのはどの町の何丁目でしょう。逆に最も少ない町はどの町の何丁目でしょう。さらに守口市の町で最も数の多い丁目は何町にある何丁目でしょう。漢字一字で表記される町はどのようなものがあるでしょう。
これらの質問にポンポン解答することができればあらたは立派な守口通です。ほとんどの方はとてもじゃないけどわからないでしょう。筆者もわかりませんが資料を元に出題者の責任を果たしたいと思います。まず第一の質問の答えは八雲東2丁目で約2400世帯で約6000人が住んでいます。それに対して第二の設問の答えは佐太東町2丁目で13世帯で40人しか住んでいません。第三の質問の答えですが金田町・藤田町・南寺方東通は6丁目まであるのですが7丁目まである唯一の町といえば佐太中町だけ。そして、最後の質問の答えは全部で13あって、暁町・祝町・梅町・梶町・寿町・桜町・竹町・浜町・東町・本町・松町・緑町・桃町。これらの町名を見ていると松竹梅に桜に桃、寿に祝があって、まるで結婚式場の新郎新婦や親族の控室のように思ってしまい、何となくお目出度い感じがして嬉しくなってきます。以上守口の町名に関する事柄を記しましたが、その町がどこにあるのか知りたい方は守口市の詳細地図などを参考にしてください。
話は変わりますが、皆さんは『日本のへそ』はどこだかご存じでしょうか?日本の真ん中に位置する所で、兵庫県西脇市がそうなのです。経緯度上の東西南北を二分する線の交差に位置することから呼ばれるのですが、その他に調べてみるとあるわあるわ、『へそ』と名乗る自治体が全国で40数ケ所もありました。ここまで読んでいると守口市も何か名乗り上げているのではとお思いになられる方もいるでしょうが、残念ながら違います。ここでは『守口市のへそ』はどこだか考えてみようと思います。
守口市は東経135度33分22秒7から135度36分32秒2、北緯34度42分19秒8から34度45分54秒4の間に位置しますので、これを西脇市と同じ手法で算出すると東経135度34分57秒4、北緯34度44分7秒1の地点が守口市の中心となります。エート、この地点、ンー、ここはもしかしたら門真市にあるんと違うの、守口の地図を見るとちょうどくびれた位置に『へそ』があるやんか!!このままではオチにもなりませんので次、今度は東端から西端へ、南端から北端へ直線をひいた時の交点を算出すればなんとかなるだろうと考えましたが、どうやって答えを出すんだろ?二次関数だか微積分だかどのようにして答えを割り出せばいいのか全くわかりません。どなたか計算してくださ〜い。では次の手段、各町の面積と人口による守口の人口重心地を算出してみてはどうか。これなら間違いなく守口市内に『へそ』が出来るぞ!!いや、ちょっと待て、各町の面積のデータが全く無い、どこに行ったらデータがもらえるんだろう。次回があれば答えを出すということでご容赦願います。
その他書きたいことが山ほどあります、金田町や藤田町は『きんだ』『とうだ』と読んで『かねだ』『ふじた』と読まないのか、守口の町名の由来などまだまだ調査せねばならない問題があります。我々『もっと守口を愛し隊』はたくさんの興味深い事柄を調査・研究に取組んで参りたく思います。
(辻本卓郎)
守口市歌
皆さんは母校の校歌を覚えていますか?それが小学校であれ、中学校であれ、高等学校であれ、たまに校歌を口ずさむと懐かしい学生時代の思い出がふつふつと蘇ると思います。また、大きな企業ともなると会社に社歌があり、朝礼の度に社訓と共に歌い上げることでしょう。そんな校歌や社歌には理想を謳いこんで校風や社風を発揚する目的で設けられているものが多いと聞きます。ところで、こんな歌詞を見たことがありますか。
一 のぼる高瀬の東雲に なりわいしげく人さわに
輝く甍はてしなく 生産日々に溌刺と
賑わい日々に守口市 みよ守口のこの力
二 長柄船瀬の昔より 驛古く道広く
開けし都新しく 京阪一路颯爽と
躍進一路守口市 ああ守口のこのすがた
三 梅に櫻に木犀に 正しきゆかり傳統の
ゆかしき馨りかぎりなく 文化を四方に絢爛と
平和を四方に守口市 おお守口のこの誇り
四 淀の川瀬はかわれども かわらぬいのちうけつぎて
礎固くとこしえに 光を代々に燦然と
榮を代々に守口市 いざ守口のこの希望
実は守口市の市歌です。作詞は詩人・安西冬衞、作曲は古関裕而。作曲家の古関裕而氏は『ラバウル海軍航空隊』などの軍歌や『君の名は』などラジオ時代の歌謡界をリードしたほどのビッグネーム。彼らが守口市の市制五周年を記念して作ったものです。
私が初めて守口市に市歌なるものがあると知ったのは、小学校の社会科の副読本の中だったと記憶しています。歌詞が掲載されていたのですが、肝心の曲がわからず長い間謎の存在でありました。守口市に長く住む私の父親に聞いても「そんな曲は知らん」とあしらわれて、子供心に守口市歌として存在しているのに、その曲を知っている市民があまりにも少ないのはなぜかと非常に残念に感じました。
しかし、数年経ち私の謎は見事に解決しました、清掃局がゴミ収集時にバックに流していたその曲こそ守口市歌だったのです。 以来、市歌を歌える私は、守口に非常なる愛着を感じています。
(辻本卓郎)
守口青年会議所
桜の花が美しく咲き誇る季節、私は帰宅するためにタクシーに乗り込みました。「守口までお願いします」と頼んだ時に、運転手さんが「あなたは守口に住んでいるのですか。良いところに住んでいますね」と言われたので、「お世辞はやめてくださいよ」と笑いながら言うと、決してお世辞ではないと彼は首を振りました。そしてこう続けました。「私は中国生まれで、日本に来て八年になります。日本に来てから守口でずっと暮らしています。本当に日本に来て良かったと思います。守口で暮らして何の不安も不満もありません。素晴らしいところですね、守口は」
まさに目から鱗が落ちる思いでした。30年近く守口に住んでいる私はもちろん守口のまちが好きです。けれどもこの運転手さんのように「守口は素晴らしいまちですよ」と誰かにお話ししたことはおそらく今までに無かったように思います。守口に住んで八年の彼が誇らしげに「守口に住んでよかった」と話されたことに私は感動し、私も彼のように心から守口はいいところですよと言えるようになりたいと思ったものでした。
まちは生きています。守口も長い歴史と文化、そしてこの地に住む人々のこの地に対する愛情によって育まれてきました。愛情の無いまちは育ちません。守口が魅力あるまちであるためにはあの運転手さんのように守口を愛する人達がたくさんいなければならないと私は思います。
私は守口を愛し、守口をより魅力あるまちにしようと頑張っている守口青年会議所という団体に所属しています。毎年地元の小学生をいっぱい集めて相撲大会を催したり、守口市民まつりでパレードの運営をしたり、子供達が交通事故に遭わないように『愛の鈴』という小さな鈴を小学校の入学式で配ったりしていますが、全てはメンバーによるボランティア活動です。普段は一生懸命仕事をしている20歳から40歳までのメンバーが時間をやり繰りして、守口を魅力のあるまちにしようと活動しているのです。
守口には守口青年会議所だけでなく、他にも同じような志を持った団体が多数あります。自分達の住む愛するまちのために無償の汗を流す。こんな人達がいる守口はますます魅力あるまちになっていくと私は信じています。
(神原由次)
守口大根
大根足という言葉で、皆さんはどのようなイメージを抱きますか。まさか桜島大根のようにまで肥大した足のイメージではなく、大抵の方が八百屋さんで売っている普通の例えば青首大根の太さを思い浮かべるのではないでしょうか。
ここで一つ、いつも大根足と言われている方に朗報があります。大根の一種に守口大根という世界一長い大根があります。長さは一メートル前後、太さは牛旁より少し太い程度で色は白、足に例えれば『可憐な細足』のイメージがピタリと合います。(嗜好によるが私は青首大根の方が……)奈良漬の容器に添って巻いてあるような漬物が守口大根です。桜島大根ミディアム足(筆者家内談)の私にとって守口大根は非常に興味が湧き、今でも栽培されている守口大根を求めて、岐阜県羽島市の栽培農家に訪れ、栽培方法などのお話しを聴かして戴いたのですが、その折に守口大根の歴史や名前の由来などのお話しをすると、昔からここで作っていて本家は守口ではなく、この付近だとのご指摘を受けました。
(温厚な人でしたが守口大根羽島本家論の所では一生懸命現在も栽培している為のプライドが許さないのか少しエキサイトした口調)また守口漬は食べたことはあるのですが、生の守口大根はどんな味か、他においしく食べれる調理方法はないかと考え、生のまま・酢漬け・煮物で試食しました。結果ははっきり言って固くて繊維質が多く青汁ほどではないと思いますがおいしくない。古くは室町期に突然変異によってできた細く長い大根を、努力して品種改良により更に長くしたと思われ、栽培にも『天地返し』という一メートル以上の深さを耕す大変な作業が必要であるのにおいしくない守口大根。漬物の食材にしか使用できないような大根が何故、今も食品として残っているのかを考えてみるとやはり『可憐な細足』のような形状が大きな要因ではないかと考えつきました。口上はさておき、上記のように約半年間、守口大根の事を考えています。何と私の桜島大根ミディアムが外周にして六センチも細くなったではあ〜りませんか!!
いつも大根足と言われている方、守口大根の事を半年間、一日に一回イメージしてみませんか!!もしかすると簡単にあなたの足も『可憐な細足、守口大根』になれるかも!!(私の足の外周計測位置が違ってたと言うご指摘もありますが……)
(村田憲勇)