難宗寺
京街道の守口宿のあった竜田通に難宗寺がある。その本堂を包み込むかのようにいちょうが立っている。木の高さ約25メートル、直系約1.5メートル、枝張約15メートル、樹齢は約500年。気の遠くなるような年月である。ずっといちょうは私達のまちを見続けてきた。
毎年春になると何十万もの新緑が芽吹き出す。夏には空を覆う程の新緑となり、秋にはそれがまばゆい程に黄葉する。そして晩秋の報恩講の頃には、それら何十万もの葉が木枯らしの風とともに一斉に舞い降りて、あたり一面に黄色い絨毯を敷きつめるのである。こんなに美しい絨毯を私は他に知らない。季節を感じながら今年は息子と一緒にこの絨毯の上を歩いた。
冬の間冷たい風にさらされて寂しそうに立っているいちょうだが、来年もまた何十万もの新緑をつけることだろう。その力強い生命力が見るものを感動させてくれるに違いない。息子の代にも、そして孫の代にも。
(水谷治人)
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西三荘ゆとり道
その地にじっくりと腰を下ろしてみないと
解らないことが多々ある。私が旅をするときにいつも思うことである。これは何も旅に限ったことではない。何事もじっくりと腰をおろしてしないことには何も身につかない。私のポリシーである。
何やら守口市に『西三荘ゆとり道』という新名所ができつつあるらしい。新し物好きでもある私はさっそく腰をおろしに出掛けることにした。何度も言うがこれが私のポリシーである。『腰おろしの赤塚』と呼んでくれたまえ。
さて、まずは日曜日を狙ってみることにしよう。期待通り、いろんな人がいろんなスタイルで楽しんでいる。散歩中の上下ジャージのおばちゃん。走り回っている小学生。ベビーカーを押しているお母さん。案内板を見て守口市の歴史を偉そうに我が子に教えるお父さん。実に様々である。通りゆく人達の顔を見ているだけで、楽しく朗らかな気分になれた。
次は平日にぶらりと寄って腰を下ろしてみた。人っ子一人見当たらない。待てども通る人はいなかった。さすがに平日の真っ昼間だからであろう。帰ることにした。が、その時、面白い光景が目に入った。一台の車が停まっては走り去り、また一台の車が停まっては走り去る。そして停まる場所はまったく同じ場所なのである。私は思わずそこへ駆け寄ってみた。なんとそこはゆとり道の中にある、恰好の良い『公衆トイレ』だったのだ。今度はその横のベンチに腰をおろし、次の車を待ってみる。すぐに来ました白のライトバン。ネクタイ姿のおっちゃんが降りてきて、駆け足で飛びこんでいく。ここは営業車に乗るビジネスマン御用達公衆トイレだったのである。その数なんと、私が見ていた少しの間で五台もの営業車が停まり、7人ものお役に立っていたのである。
想像もしていなかった平日白昼のゆとり道。すごい発見をしたかのような大きな気持ちになって、私もそこで用を済ませてから帰ることにした。
その地にじっくりと腰を下ろしてみないと解らないことが多々ある。あなたも『西三荘ゆとり道』でじっくりと腰をおろしてみませんか。
(赤塚康彦)
ビバ守口
昭和30年代に生まれた小生にとって少年期の娯楽施設といえば映画館・アイススケート場・ボウリング場であり、青春そのものであった。昭和40年代の終わり頃までは、守口にも映画館やボウリング場は何軒かあり、小生もよく通ったものである。
しかし、時代の流れとともに小生の愛するそれら娯楽施設は守口から姿を消してしまい、映画は今やビデオの時代となり、ボウリングは昔の低迷期ほどではないにしろ必ずしも娯楽としてはメジャーではなく、アイススケートに至ってはあの桜ノ宮のアイススケート場まで閉鎖された今日この頃、一体大阪では何処でアイススケートをすればいいのかわからないほど廃れている。
しかし、あるのである。小生の愛する娯楽施設があるのである。守口には小生の言う娯楽施設であるアイススケート場があるのである。今や絶滅寸前のアイススケート場が守口にあるのである。その名を守口スポーツプラザ。通称、ビバ守口という。
ビバ守口は夏はプール、冬はアイススケート場として、それぞれ『ビバプール』、『ビバスケート』として営業し、一部の市民に親しまれている。しかし、たまに駅などでその割引券をもらった記憶のある人もいるだろうが、必ずしも全守口市民に浸透しているとまでは言えないようである。
ここで小生は提案したい。みんな『ビバスケート』に行こう。
この大阪でも数少ないアイススケート場を何としてもメジャーにし、小生の青春の頃のようにアイススケートをメジャーな娯楽として復活させてみたいものである。聞けば近頃の若者はアイススケートをしたことがない輩が大変多いとのことであり、小生としては嘆かわしいことこの上ない。
そして、いつの日かアイススケート場に若者が集い、そこに小生は昔とったきねづかとばかりにスケート靴を履き、華麗に滑走すれば注目の的になること間違いなしなのである。
ところでビバ守口、夏はプール、冬はスケートなのだが、春と秋は一体何をしているのであろうか。いっそのこと春と秋は映画を上映し、ボウリング場も造ってもらえれば、小生の青春なおのこと蘇るのであるが……。
まっ、とりあえず、ガンバレ、ビバ守口!!
(榊原健三)
文禄堤
大昔は現在の守口あたりは土地が低く、そのため水を治めることが大切なことであったようです。今でも守口や周辺に残る『水路』や『樋』『蓮根畑』などは当時の名残です。今から四百年前の文禄5(1596)年、豊臣秀吉は大名に命じ淀川の堤防を築かせました。これが『文禄堤(太閤堤)』です。現存しているのは、八島の交差点から三洋本社あたりまでの約700メートルです。当時の『守口宿』の南半分はこの『文禄堤』にありました。つまり堤防の上が東海道でした。街道であり宿場であったため様々な建物や施設があったのでしょう。そのためにその部分が現在も今となっては不自然な形で残っているのだと思います。
私は現在の『文禄堤』にかかっている二つの橋、『本町橋』と『守居橋』のうち、『守居橋』の南詰に家があり37年間暮らしています。今まで特に不自然には思いませんでしたが、改めて今見てみるとやはり不自然であります。堤の上と下につながっている家では、堤の上からは一階ですが下からは二階になります。平坦な市街地の中に、こんもりとある『文禄堤』は都市整備上不都合な点もあるかもしれません。それゆえに、切り通しをつくり橋をかけたのでしょう。
橋を挟んで『守居橋』の北詰めの柴田さんと
いう家では堤の下に一階と中二階があったように記憶します。そこで中川さんという書家がお習字の教室をされており、子供の頃(昭和40年代)通っていました。中川さんはなかなか有名な書家のようで、今は週に一度『守居神社』で教室を開いておられます。その向かいは空き地でした。堤の上から下までの間に、段々畑のように段が二段あり、格好の遊び場でした。工場の跡であったのか雲母が落ちてあり、よくそれらで遊びました。その頃の友達もみんな『文禄堤』に家がありました。現在は私の家を含め、それら多くがマンションになっています。『守居橋』だけは当時のまま、と言うよりも段々と老朽化しながらも、定期的に安全だけは確保するための補修を繰り返しコンクリートの欄干をなんとか留めています。
さて、歴史的に『守口宿』を検証するための『問屋場』や『白井邸』や『瓶橋跡』、『難宗寺』や『盛泉寺』などは『文禄堤』を八島の方に降りた北側に点在しますが、『文禄堤』の上にも当時の名残が今も少し残っています。それは『魚万楼跡』であったり、『うだつ』の残る家や奈良へ向かう道の道標などです。そのひとつである『うだつ』の残る家に現在もお住まいをされ、そこで写真館をされている三好さんにお話を伺いました。それによりますと、その家は、昭和の初めに建造され築約70年であり、15年位まえに修繕をしたときも、全面の壁をモルタルにせずに漆喰で仕上げられたそうです。小学校の見学者も時々あり、四年の教材として『文禄堤』や『うだつ』の残る家があるようです。また近くには『守口大根』を漬けて販売していたところもあったそうだということです。遊郭もあり大阪からの旅人を守口に足止めするのに一役買っていたのではとおっしゃっておられました。
同じく『文禄堤』に御宅のある岡村さんの話によると、現在の島野耳鼻科横の階段は古くからあり、船が着いていた所ではないかということです。また私の家に月参りに来られた『勧正寺』の住職の話によると檀家の方から淀川から水路を引いて『文禄堤』の家の倉庫に船を置いておられたという話をお聞きになったそうです。
この度この原稿を書くために少し取材をしたのですが、わずか半日で右のようなことがわかりました。まだまだお年寄りや古い家の方に伺うと色々なことがあるはずです。江戸や明治時代のことを伝え聞いておられたり、自身が若いときの話などです。私でも30年前のことを語り残すことができます。これも70年たつと100年前の話になります。しかしこれらも今何らかの形で残しておかないと段々と消えてゆきます。今回のことを通じて痛切に感じたことであります。そしてそのようなことは、何も難しい事ではないと思います。同じような考えの者が何人か集まって、それらのことを書き留めればよいのです。そしてその活動が義務的なものにならず、自分たちの楽しみとして出来れば最高です。このようなちょっとした仲間を発見したり、少しでもよいから自分たちの住んでいる所のことを話したりするのです。大げさな『まちづくり』なんかしなくても、こんな小さな行動でも『ふるさと意識』ができる立派な『まちづくり』になると思います。今回のこの本をきっかけに、仲間をさがしてそんな活動をしてみようかなと思いました。この本の第二巻ができるようであれば、是非ともその成果を発表できればよいと考えます。
(吉川巧一)
プリンスホテル
プリンスホテルなのである。
誰が何と言っても、あのプリンスホテルが守口市の駅前に堂々とそびえているのである。
守口プリンスホテルは、平成7年現在日本全国に53ケ所、海外に9ケ所あるプリンスホテルの中で、昭和60年にオープンしたまだ少々歴史の浅いホテルである。関西では滋賀県に3ケ所、京都府に1ケ所、そして大阪ではここ守口に1ケ所だけしかなく、関西人にしてみればなかなか泊まりたくても泊まれない、手の届きにくい憧れのようなイメージがあるのである。しかも、松下や三洋などへのVIP御用達として非常に重要な役割を担っており守口のイメージを上品で高級なものにするのに一役買っているわけである。
今この本を読んでいるあなた、お忍びで泊まったりして守口プリンスホテルのイメージをつぶしたりせんようお願いしまっせ。
(寺崎正也)
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