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さ 咲くやこの花館

バニラの木さる

19 1990年、わが守口市と大阪市の鶴見区にて『国際花と緑の博覧会』が開催されました。大盛況のうちに幕が閉じ早や六年、現在では大阪を代表する公園としてみんなに親しまれています。ほとんどの施設が姿を消した中、今も残る大温室、それが『咲くやこの花館』です。総面積6890平方メートル、高さ三百メートルもあるこの大温室の中では熱帯から極地圏まで約15,000株2,600(品)種の様々な植物を一年中見ることが出来ます。
 数ある草木の中で私のお気に入りは『バニラの木』。正式名を『バニラブラニフォリア』といい、メキシコ南部、西インド諸島原産のラン科つる性植物です。皆さんご存じのバニラアイスクリームの元で、お湯をかけたりキズをつけたりして発酵させて香りを出しますが、一般には安価で手軽なバニラエッセンスが使われています。  鶴見緑地におでかけの際は、ぜひ『咲くやこの花館』に立ち寄られて、『バニラの木』のやさしい香りにふれてみて下さい。

(満潮 功)

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さ 三洋電機

『三洋』へはばたく夢さる

 守口は『松下や三洋の本拠地』として知られます。
 『三洋』すなわち三洋電機株式会社は戦後生まれの世界的な巨大企業ですが、創業者の井植歳男氏は松下幸之助氏の妻むめのさんの実弟です。高等小学校卒業後幸之助氏に呼ばれて『松下』の創業時から仕事を手伝い、専務として『松下』の発展に尽力されました。戦後GHQの財閥指定を受けたことで退社され昭和22年に独立して『三洋』を設立されました。
 昭和22年11月13日、金曜日。操業まもない三洋電機の守口工場が失火で全焼した時、東京出張中の歳男氏は、ご近所(守口のことですが)への延焼をまず心配され、社員の安否を確認した後、「ええか、燃えてしまったものは仕方がない。クヨクヨするな、とみんなに伝えておくように」と言い置き、大阪には向か わずに直ちに秋田に飛び、10日かかって調達した再建用材木などとともに帰阪され、短い間に危機を脱したということです。大阪に着いたときには「人生は焼け肥りということがあるでェ。さあ、今日これからが大事や」と言われたということです。このような言葉を聞いて奮起しない社員がいるでしょうか。  『松下』も門真へ移転したばかりのときに室戸台風により大被害を受けていますが(昭和9年9月21日)、「こけたら立たなあかんねん。赤ん坊でもこけっぱなしではおらへん。すぐ立ちあがるやないか。そないしいや」と松下幸之助氏は言われたとのこと。大を成す経営者には共通の考え方があるのでしょう。
 ところで、この社名の『三洋』の由来を知っていますか。
 『太平洋』『大西洋』『インド洋』の世界の大洋で、海を大変愛されていた井植歳男氏が世界にはばたくという願いを込めて命名されたということです。社名に創業者や土地の名前をつける慣例にとらわれないところに、また狭い作業所から『大松下』へ発展させた功労者の歳男氏が、再度ゼロからチャレンジするときに選ばれたというところに、限りない夢とロマンを感じます。
 私たちは『三洋』の前を毎日歩き、自動車や自転車で通っていますが、このような人間が生きていくための知恵と勇気を伝えてくれる大企業が本当に身近なところにあることの素晴らしさを感じさせられます。

(岡崎隆彦)

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し 四国銀行

四国銀行が守口にある理由さる

20 京阪守口市駅の西口を出てすぐのところ、早苗幼稚園の隣に四国銀行はあります。高知市に本店を置き『土佐の暴れん坊』の異名を持つパワフルな地方銀行です。明治11年の創業以来、地元高知県はもとより四国四県でなんと124店舗を擁し、四国の発展に貢献して来た歴史を持つ銀行であります。旅行で四国へ出掛けた人なら四国銀行の看板をよく目にされたことでしょう。その名のとおり四国ではメジャーな銀行ですが、私は四国以外では守口支店以外では見たことがありませんでした。それもそのはず聞いてみますと四国以外には全国で九店舗しかないのだそうです。東京・大阪・神戸・岡山・広島・大竹・尼崎・守口・香里。
「えっ? 守口と香里???」
 地方銀行は都市銀行と違って地域密着型です。だから四国以外に支店が少ないのは当たり前。数少ない四国以外の支店が大都市にあるのは分かります。では何故大都市でもない守口と、すごく近所の香里に貴重な支店を置いたのでしょう? 京都にもない支店を何ゆえ守口に???
 この理由がずっと知りたくてたまらなかったのですが今回ついに聞いてみることにしました。 「あの〜、何で守口に四国銀行の支店をつくられたのですか」。行員さんは「なんちゅう質問をしはんねん、この人は」という顔を一瞬された後、すぐに笑顔に戻って「当行に設置の要請が地域からあったと聞いておりますが」
 そこで、「何でそんな要請があったんでしょうか」としつこく聞いてみますと、「なんかのスパイとちゃうか、この人は」という顔のまま、それでも「詳しくお知りになりたいのでしたらご説明させていただきます」と言って、ある資料を見せて下さいました。何と優しい人でしょう。大喜びで資料に目を通していた私は数分後、「えーっ、ウソーっ、ほんまーっ?」と叫ぶことになりました。資料にはこんなことが書いてあったのです。
 「四国と阪神経済圏とは昔から人的交流が盛んで、特に高知、徳島両県人は従来海路を利用し、上陸後大阪に定着する者が多く、中でも守口市を含む北河内地方には伝統的にこの傾向が強くて住宅関連事業等に従事し、活躍されております。〜略〜 守口市における四国出身者35,000人(守口市総人口183,000人の19パーセントを占める)。これらの出身者は各県人別に県人会を組織して強力な連帯感を持ち郷土意識も強く、当行に対して強い店舗設置の要望があります。〜略〜」(昭和49年四国銀行守口支店設置許可申請書より抜粋)
 「えーっ、ウソーっ、ほんまーっ?守口市民の19パーセントが四国出身者やなんて」とこのコラムを読んでいるあなたも思われたことでしょう。でもこの資料には県別出身者数のデータまで 載ってあるんですよ。「そうかあ、それで守口に四国銀行があるのかあ」と歴史的大発見をした気分になった私です。守口はベタベタの大阪やと思っていたのですが、大阪と四国の文化がうまく融合したまち、これが守口なんですね。まだ疑っているあなた、嘘だと思うのなら近所の人に聞いてみて下さい。5人に1人は四国出身者のはずですから。

(水谷治人)

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し 七福の湯

風呂屋に行こうよさる

 いつも元気で楽しい僕でもたまにはストレスがたまることがあるのサ。そんな時、手軽なストレス解消法は風呂屋に行くことだ。
 守口市にはまだけっこうたくさん大衆浴場ってやつが残っている。もちろん家にも風呂はあるけど、それじゃあだめなんだなあ。だって湯船は大きいかい?サウナはあるかい?風呂屋にはそれがあるんだぜ。おじいちゃんもおばあちゃんも大人も子供もちょっとコワイ人もみんな家族のように湯船につかるんだ。
 めったに行かない人も多いようだけど、一度行ってみると得した気分になるよ。手ぶらで行ってもたったの500円程度。それにサウナに入った後にビールを飲むと、これがまたうまいんだ。明日も頑張って働こうって気になるね。
 小さな幸せだけど、それが感じられなくては大きな幸せを得られないよ。だから風呂屋に行こうよ。

(中島 淳)

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し 司馬遼太郎

無名時代の司馬遼太郎氏さる

 作家の司馬遼太郎氏といえば、ファンも多く、その存在を知らない人はいないでしょう。この現代日本の偉大な作家と守口との関わりを知っている人はどれだけおられるでしょうか。
 司馬氏には妹さんがおられ、戦後浜町の『大塩書院』の隣の旧家の水谷家に嫁がれました。その後司馬氏のご両親がこの妹さんを頼って守口に住まわれるようになり、桜町で司馬氏のお父さんが薬局を経営されていました。(それ以前は難波の高島屋の近くでやはり薬局を経営されていたとのこと)司馬氏はまだ無名の青春時代の一時期その薬局に住んで、勤務されている新聞社に通っておられたそうです。司馬氏の守口の昔を知る方に伺ったところ、昔の東海道や奈良街道にあたる道を考え事をしながら歩いておられる姿を見かけたとのことです。若き日の姿に後の『街道をゆく』のイメージが重なります。
 司馬氏は、当時まだ無名でしたが、第二次世界大戦で戦争の悲惨を体験され、戦後「物事を月光よりも太陽の下で見たい」という精神で、「日本人とは何か」を考え続けて来られました。(私はその意味でも『坂の上の雲』が大好きです)  その後、小説家として活躍され、産経新聞に1962年(昭和37年)から1966年(昭和41年)までの間連載された『竜馬がゆく』が男らしいロマンチシズムを刺激し、日本中の学生、青年サラリーマンたちを魅了しました。1968年(昭和43年)にNHKテレビの大河ドラマで放映されましたが、司馬氏の守口での昔の姿を知る人たちがびっくりしたということです。
 司馬氏は、妹さんの関係で、今でもときどき守口に来ておられるそうです。
 以上、ファンとして、司馬氏と守口との関わりを書かせていただきましたが、最後に、私が好きな司馬氏の素晴らしい言葉を紹介します。 (文化勲章をもらって嬉しいけれど)「ただね、文章は書生でなければ書けない。書生には社会的身分がなく、だれにも属さず、一人前でもない。そういう人間でないと書けない。ごほうびはうれしいが、明日からは忘れようと思っています」

(岡崎隆彦)

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し 市民プール

秘密の思い出さる

21 僕は小学生の頃、夏休みになると一つ年上の兄と一緒に100円玉を握りしめて近くの市民プールへ毎日のように通った。  その頃、入場料は1時間20円で1時間経つと休憩時間がありプールに入っている全員が外へ出された。そして、休憩時間の終わりを告げる合図と共に、僕たちは走ってはいけないプールサイドを歩くような競歩のような急ぎ足で近寄り、これまたしてはいけないとされる飛び込みの一番乗りを競いあった。
 かれこれ3時間もプールで遊んでいると目が痒いような痛いような感覚になる。それでも僕たちはトイレへ行く時間も惜しんで遊び続けたのである。すると、どちらかの動きが一瞬止まる。そして、すみやかにその場所から離れるのだ。「したやろ」「した」これだけの会話で二人は通じあう。なんという気心の通じあった兄弟であろうか。そのうちエスカレートして僕は兄の手をつかんで股間へ押しやる。すると兄は何やら暖かい感触を掌に楽しむことができるのだ。
 やがてプールの閉鎖時間が近づいてきて、ぼちぼち帰らなければならない。着替え室に入ると、大事に大事にしている公民館の利用証、青少年センターの利用証が入っている財布が見当たらないことに気づく。「またやられたわ」「そんなもん持ってくるもんが悪いんや」
 そんな僕たちも中学生になって、友達の間でいつの間にか夏休みにプールへ行くとなれば牧野のヤングプラザへいくことがステータスになり、あの黄色く見える市民プールへはぱったりと足を運ぶこともなくなってしまった。
 このコラムを書くために、今度娘を市民プールに連れていってみようかと久しぶりに覗いてみると、料金はあの20年前のまま1時間20円と書いてある。何と一度も値上げをしていないのには驚いた。そして、プールではしゃいでいる小学生にあの頃の僕と兄の姿を重ね合わせ、懐かしいようなそして複雑な気持ちでしばらくの間それを眺めていた。

(篠原拓男)

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じ 盛泉寺

除夜の鐘を216回聴ける場所さる

22 12月は師走というくらい1年間を締めくくる月で忙しい訳ですが、大晦日はそれが最高潮に達する日でありましょう。新しい年をすっきりした気持ちで迎えたいという気分が慌ただしさを加速させます。仕事の残りをやっている人、大掃除をしている人、おせち料理を作っている人、まだ年賀状を書いている人、海外旅行に出掛けた人。大晦日の過ごし方は人によって様々ですが、私の場合は頑ななほど純日本的であります。
 何とか夕方までに雑用を済ませて夜の7時頃から家族全員で年越しそばを食べ、お重箱に入り切らなかったおせち料理の残りをつつきながらテレビを見ます。そして『紅白歌合戦』が終わる頃、「ゴーン」という鐘の音が。『ゆく年くる年』の鐘の音? いえいえ、そうではありません。実は私の家の並びの左右には50メートルも離れていない場所に難宗寺と盛泉寺という由緒正しい寺が2軒ありまして、そこからあの何とも言えない「ゴーン」という心にズシンとくる鐘の音が聞こえてくるのです。
 鐘は108回、煩悩の数だけつくと言われていますが、私の家では両方のお寺合わせて計216回の鐘の音を左右からまるでステレオ放送のように聞くことのできる非常に貴重な場所だと言えるでしょう。
 さて、鐘の音が聞こえてくると私たち家族も鐘をつきに出掛けます。普段静かな境内は薪が焚かれ、たくさんの人達が集まります。大人、子供、おじいちゃん、おばあちゃん、若いカップル。そして知り合いの人も、そうじゃない人も誰彼構わず笑顔で新年の挨拶をするのです。 「あけましておめでとう」
 私はこの不思議で素敵な光景を見るたびに少し大袈裟な言い方をするなら『日本人の心』を再確認するのです。
 守口は大阪の衛星都市として都市化が進んでしまいましたが、同時に長い時間をかけて育まれた歴史的な遺産、文化があります。まさに守口は古きをたずねて新しきを知ることのできるまちと言えましょう。
 ちなみに私は毎年煩悩の鐘の音を聞き過ぎて、子煩悩になってしまいました……。

(水谷治人)

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す 水都祭

復興のシンボルさる

 水都祭?なんで守口やねん。という声もありましょうが、花火というものは見るものです。水都祭は、守口市内からでも十分楽しめるのです。外島町あたりの河川敷やマンションからでっかく広がった花火を見ることができます。
 さて、取材も兼ねて水都祭を楽しみにしていたのに、今年は中止とは!!トホホホ。やはり、阪神大震災の影響があったようです。そこで今回は水都祭の主催である株式会社日々新聞社から頂いた資料を基に水都祭の歴史を紐解いてみました。
 何と水都祭は戦前からあったのです。昭和の初め(年月不明)同社が「景気の良い花火大会でもするか」ということになり、中之島で始まりました。大盛況だったらしく見物客が増えたため桜宮を第二会場として使うことになり、名前も水の都の祭りだからずばり『水都祭』となりました。
 再び何と何と、戦後はいち早く昭和21年8月17日に復活水都祭が行われているではありませんか。こちらのきっかけもおもしろく、同年7月神戸に進駐していた米軍が独立記念の祝典に花火を打ち上げることになり、同社との交渉の結果わずか1ケ月後に行われたのです。まさに復興の狼煙です。
 同社の昭和21年8月18日付新聞によると『夜空に奔騰・浪速新生の夢幻郷〜昨夕第一回水都祭〜』と題し「この夜の人出は無慮二〇萬を算し、花火が消え、やうやく秋の夜長が身に感じる深更まで、平和をとりもどした喜びの声が、いつまでもいつまでも續いていた〜」と締めくくっています。
 その後、昭和25年より桜宮公園も会場に加え、同38年からは城北公園裏淀川河畔で行われるようになりました。しかしオイルショックの間自粛しその間(昭和50年代)、『天神祭船渡御奉賛花火大会』等形を変えて登場、昭和60年に第40回水都祭が復活。(公害問題への認識から『河川浄化運動』が加わる)そして第43回はチャリティー形式の催事で行われました。
 このように花火大会一つの歴史をとってみても、ちょっとしたきっかけから始まり、『戦後の復興』『オイルショック』『公害』『チャリティー』『阪神大震災』と社会の状況に影響されながら、 また、影響を与えながら行われてきたことがわかります。
 水都祭はまさにその花火の数、規模、見物人の数からいって、大都市における花火大会としては日本一ではないでしょうか。水都祭は来年またきっと復活するでしょう。阪神大震災の復興を願いつつ、そして水都祭の歴史に思いを馳せながら、来年の水都祭では宝玉の星の世界に身を寄せたいものです。

(佐藤裕己)

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す 水道局

八雲のおいしい水さる

 我々の生活にとって欠かすことのできないもののひとつが『飲み水』です。阪神大震災でも水、電気、ガスのライフラインの確保が叫ばれていたのがまだ記憶に新しいと思います。中でも水は生命の源であり、安全で安価な水を常に確保しなければなりません。
 しかし、水道の水は日頃からまずい、臭いと評判がよくありません。そこで、当編集部でどのくらいまずいのかを目隠しテストで試してみました。ます、守口市の水道水と大阪市の水道水、そして市販のミネラルウォーターとを、同じ温度(室温)で同じ紙コップに入れ、飲んでみておいしい順に並べてもらいました。結果は次のようになりました。

         守口   大阪  ミネラル  合計
 一番まずい    
0     8     2     10
 一番おいしい   5     1     4     10

23
 データは10名と少ないので信憑性にはやや欠けるものの、大阪と他の二つとの差は非常に少ないように思われます。要因としては、少し臭いが気になるというのが大半で、味はあまり分からないものが多かったようです。 「最近、水道の水がおいしくありませんわね」 「そうざますか。宅ではミネラルウォーターしか飲まないので分かりかねますわ。おふろも全部ミネラルウォーターで沸かすんですのよ。オホホホホ……」 「あぁ、そうですか」 「それにしてもこのお紅茶、おいしいざあますわね。どこのメーカーのお水でお作りあそばしたのかしら」 「あっ、間違えてイソジンを水で薄めたのをだしちゃった……」
 水道水とミネラルウォーターとの味の差は思ったほどではありませんでしたが、値段の方は随分と違います。例えば、200リットルのバスタブ1杯で、水道水でしたら約25円ですが、ミネラルウォーターでしたら約2万円かかります。約800倍ですね。
 このように安い水道水を手軽に飲むために、我々は日頃から水源を汚さないよう心がけ、台所からゴミや油を流さないよう気をつけていきたいものですね。

(寺崎正也)

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せ 千林商店街

私のお薦め千ぶらコースさる

24 日本一か大阪一かは定かではないが、とにかく長い商店街として有名らしい。このコラムを書かせていただくことになり、一度測ってみようと思ってはいるが、〆切間近となりすっかり記者気分で書いている私としては、肌で直接感じた無名の小ネタをお伝えしたい。とにかく、私とご一緒に千林商店街のツアーへ出かけて下さいませ!!  まず、京阪千林駅の改札を出てすぐ正面、今はラーメン屋となっているところがかの有名なダイエー発祥の地。(注、記念碑はない)そして『探偵ナイトスクープ』(朝日放送TV)でも採り上げられた♪せんばやぁ〜し商店街♪の歌をBGMにアーケードの下を歩いていくと、TV番組というと必ず登場する千林商店街の顔『伊勢屋のおっちゃん』を始め、威勢のいい元気な声があちこちから聞こえてくる。個人的にはトポス手前の角にある果物屋のおっちゃんのすんごいダミ声を私はお薦めしたい。このダミ声おっちゃんの「甘いで〜、甘いで〜」という渋ぅい声がたまらない。私は「このおっちゃんのかくし芸は『がまの油売り』に違いない」とにらんでいるが、もしかすると果物屋がかくし芸かもしれない?
 千林には沢山の薬局があり、当然いずれも超特価がご自慢である。それを証明するエピソードをひとつご紹介しよう。昨年か一昨年、ダミ声おっちゃんの店の近くの某薬局の天井が落ちた。何でも、安く沢山仕入れた在庫を置きすぎたのが原因らしいが、安値へのこだわりが有名となったこの薬局へ「買いに行きたし、でも天井落ちたら怖し」と千林の主婦は究極の選択をせまられた。
25 悩んでいる主婦は放っておいて、ちょっと方向転換。トポスの外壁に沿って所狭しと様々な店が軒を並べているが、何とここが京阪千林駅からトポスまでの近道なのだ。週末や特に年末などはアーケードの下は心斎橋並みの人出で10〜20分かかるところを、この近道を利用すると3〜5分というスイスイさなのである。実はここにも私のお薦めがある。まずはトポス入口横の焼き鳥兼お総菜屋さんみたいなお店。いつも、AMラジオを大音量でかけている。私も営業ウーマン生活をしていた頃は一人車の中でラジオをよく聴いてクックッと笑っていたものだが、このお店の方々は通りがかりの私が思わず笑ってしまいそうになるタイミングにも料理の鉄人となって決して笑ったりしない。聴いていないのかと思ったりもするが必ずかけているし、高校野球のシーズンはいつも中継しているので、突然野球の結果が気になって仕方がなくなった時はこのポイントをお薦めしたい。
 次にいつも蛍光赤色札の家具屋さん。こんな狭い道沿いにある家具屋さんを私は他に知らない。荷入れや荷出しを何処からしているのか?謎の家具屋さんである。この本のタイトルは『千林商店街』ではないので私の小ネタもそろそろこの辺りにしておこう。
 最後を飾るのは謎の家具屋さんを横目に突きあたった辺りにあるクリーニング屋の大将である。「これぞプロ!!」と思えるその玄人気質(この大将のことを私は実際よく知らない)に、素人の私は圧倒される。真夏でも扇風機だけで汗だくになって重いアイロンを扱うこの大将に、「ナップサックさげてピクニックか?」と突然声をかけられ、一応流行りのリュックスタイルのバッグをもっていた私は、「えっ、あ、はい。ハハハ……」とドギマギ返答し、何だか少し嬉しくなった。念のため言っておくがクリーニングの腕も確かで私の超お薦めである。
 忘れるところだったがもうひとつ私のお薦めがあった。千林商店街のツアーも終え、再び京阪千林駅に戻ったところにある靴屋のご主人だ。顔を会わす風でもなく、店の奥の方からチラッと私の顔を見つけたというタイミングでも、いつも腰低く「こんにちはぁ〜、いつもありがとうございますぅ〜」と、柔和な笑みをたっぷりとご挨拶して下さる。でも私は500円のスリッパを買ったことが一度あるだけなので、ご挨拶されるたびにとっても胸が痛む。いや、これぞ『商売人の鏡』なのだ。あーなんて勉強になる事の多い千林なんだろう。
 つまり、安くて勉強になって、帝塚山の奥様方にも人気のベーカリーまである、こんなにもエクセレントな千林商店街を私はお薦めしたいわけである。千林商店街ツアーはこれで終わりだが、各々で、また何時でもお出かけ下さいまし!では、また『千林商店街』でお逢いいたしましょう。

(嶋村ひとみ)

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