辰吉丈一郎地下鉄谷町線通過都市鶴見緑地公園1鶴見緑地公園2寺方提灯踊り東海道五十七次守口宿
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た 辰吉丈一郎

ボクサー・ジョーさる

26 『ボクサー・ジョー』という映画をご存じでしょうか?もちろんですよね。守口のまち(文禄堤や淀川河川敷など)を舞台にした辰吉丈一郎さんの映画ですから、エナジーホールで上映された時には守口市民のほとんどの方がご覧になったことと思います。
 実は監督はじめ撮影スタッフ約20名が私が営んでいるビジネスホテルに宿泊され、私が朝食のお世話をさせて頂いておりました。でも毎朝食べるのは5、6人だけで、理由を尋ねると毎朝4時頃まで酒盛りをやってて朝起きれないとのこと。朝食抜きはいいけど、仕事はちゃんとできるんだろうかと思って「そんなんで撮影大丈夫なんですか?」と聞くと、「一昔前の人達に較べたらかわいらしいもんだよ」ですって。日本映画全盛の頃はすごかったんでしょうね。その頃の俳優の顔ぶれを思い浮かべるとわかるような気がします。
 ところで何を隠そう私めもこの映画に出演しています。しかも、河川敷の上の道を歩く後ろ姿のみという大役です。え?全然すごくない?失礼な!!背中での演技はとても難しいので私しかいなかったのです。そうでも思わないと11月の寒い中、Tシャツ1枚で何度も取り直しをし、次の日に風邪を引いて熱を出した自分があまりに情けないでしょ。でも宇崎竜童さんはじめ、共演の役者さんは一日中河川敷にいて私の何倍も寒い思いをしてるわけで、役者もはたから見てるほど楽なもんじゃないなとつくづく感じました。いまでも鼻を真っ赤にして熱演している宇崎さんの顔が目に浮かびます。
 最後にうれしいニュースを一つ。プロデューサーからエキストラの依頼があった時「僕のギャラはロバートレッドフォードなみですよ。それに主役じゃないとね」と言ったら「う〜ん。じゃあ、次の企画で監督に推薦してみますね」という返事が返ってきました。舞台は必ず守口にしてもらうつもりです。近い将来守口の皆さんとスクリーンでお会いできる日を楽しみにしています。

(奥山享司)

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ち 地下鉄谷町線

地下鉄の謎さる

27「最近、すんごく気になることがあってねぇ」 「何が気になるのよ」 「一体全体、地下鉄に車両をどっから入れるんでしょうねぇ。それを考えると一晩中夜も寝られなくってねぇ、困っちゃいましたよ」という地下鉄をめぐるナゾが随分前から取りざたされていましたが、遂にこの本でそのナゾが大胆に解き明かされるのです!!  そもそも大阪に地下鉄が初めて開通したのは昭和8年で、梅田から心斎橋までの3.1キロを5分30秒で運転しました。その頃の車両の出し入れは、難波付近に縦穴を開けて、ゆっくりとクレーンでしていたそうです。地上の道路にもあまり自動車が走っておらず、のんびりと作業できたようです。今では地下鉄全線で104.3キロの営業キロ数で、一日平均274万人の人々の足として利用されています。そんだけの人が乗ったら車両もくたびれるし、新車も入れなあかん。しかし谷町線は全線地下を通っており、どうやって車両を出し入れするんでしょう。  守口と大日の間に、大日検車場という地上の車庫があり、当初はここがくさいとにらんでおりましたが、聞くところによりますとここは車両の検査をしたり乗務員が交替するだけとのこと。そしたらいったいどこから入れるんや……。実は谷町4丁目の横に秘密の通路があり、そこを通って一旦中央線に入り、そこから森之宮駅横の地上へ続く通路を通り、森之宮検車場という所へ行き、そこで車両を入れ替えるんやそうです。もちろん中央線もそこで入れるし、千日前線も入れるそうです。夜中にはそれらの回送車両が一杯停まってるそうです。 「ゆうべはホント、疲れちゃいましたよ」 「いったいどうしたの」 「いやぁ、守口まで地下鉄の最終に乗って帰ったんだけど、酔っ払っちゃって寝過ごしちゃってねぇ。気がついたらなんと森之宮車庫まで行ってねぇ」 「それで帰って来れたの」 「いえね、お金も無いんで仕方ないから朝まで大阪城のまわりをジョギングしちゃいましたよ」 てなことになるかもしれないですね。

(寺崎正也)

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つ 通過都市

交通の便利ささる

 突然一句、『守口や 三畳一間の 暮らしかな』おそまつ。
 みなさん、この意味わかりますか。この句は私が六年間守口に住んで感じる素直な気持ちを表したものです。つまり、守口というところは、座ったままで欲しいものに手が届くような三畳一間の生活のようにどこへでも気軽に簡単に行ける便利なまちだということです。
 言うまでもなく、梅田まで地下鉄で15分、京都まで京阪電車で50分、それから近畿自動車道から名神・西名阪へ、さらに阪神高速にもすぐ乗れる。極めつけは関空エアポートバスの始発地であるということです。まるで守口を中心に交通網が整備されたような錯覚さえ受けてしまいます。こう思うのは私だけでしょうか。みなさんよく考えてみて下さい。あそこに行こう、ここに行こうと思った時、守口はあらゆる方面への出発点として最高に優れたまちなのです。巷では守口のことを『通過都市』と呼んでいるらしいですが、とんでもありません。住む者にはとても便利な『起点都市』なのです。

(奥山亨司)

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つ 鶴見緑地公園

或る日曜日さる

28〇月〇日(日)晴れ  今日は日曜日だけど、誰も誘ってくれない、特に仕事もない、もちろん彼女もいない……。こんな日、僕は愛犬2匹を自転車の前と後ろに乗せて、鶴見緑地公園へ散歩に行くのです。
 『西三荘ゆとりみち』から続く、ゲートから入ってすぐの自転車置場に自転車を止め、山のエリアへ。エリア玄関から上り坂になっているメインストリートを階段に突き当たるまで行くと、左側に守口市の刻印のある花壇?の様なものがあり、サツキとクスノキが植えられています。さらに、この謎の花壇を背にずい〜っと坂を登り切ると、うわ〜いったい、ここはどこ?あるわあるわ、世界各国のガーデンパビリオンが。タイランドのパビリオンはキンピカでちょっと趣味が悪いぜ。公衆トイレの案内標示まで中国語と英語と韓国語と、もう一つは何語かな〜?と4ケ国語で書かれていて、とっても国際的。  ここからエリア最高峰の鶴見新山を目指して、さらに上ります最後の緩い傾斜の階段を登り切って回れ右をすると、目前に素晴らしい展望が開けます。これぞパノラミック・ナイス・ビュー・オブ・守口。プリンスホテルからツインタワーまで、よう見えまんがな。今度は双眼鏡を持って来よう。
 景色を堪能して、鶴見新山を南側へと降りると、巨大な風車が見えてきます。実はこの風車が謎の風車でして、羽根をよく見ると骨組みだけで、とても風を受けて回っているとは考えられない。多分、電力で趣を醸し出すために回しているのでしょう。ちょっと無駄なような気がしますが……。  風車を左手に見てバラ園を抜けると、日本庭園が現れます。なかなか落ち着けるたたずまいではあります。でも小川を流れる清流?は緑色で少々気持ち悪い。
 大池に沿って進むと、ゲートの隣に茶店があり、うどんのノボリが立っています。さらに行くと……。あっ、もう紙がない。お〜いだれか、紙や紙!!アホ、誰が便所の紙持って来い言うてん!!とりあえず、これでほぼ山のエリアを一周しましたが、まだまだ紹介されないスポットがたくさんありますので、後は皆さんが実際に自分の足で鶴見緑地を探検してみてください。

(岡田善雄)

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つ 鶴見緑地公園

鶴見緑地の地下はゴミさる

 平成2年に開催され、入場者数が2,300万人にもなった『国際花と緑の博覧会』はあまりにも有名ですが、その会場となった鶴見緑地も今や全国区となり、日曜日なんかは家族連れでたいそう賑わっています。花博の時のパビリオンの部分が芝生の大広場になってたりして子供達には人気があります。緑地のそばのマンションなんぞに至っては、環境が良いということでけっこう値が通ったりしています。
 今は非常に整備され綺麗なイメージの鶴見緑地も、昔は一面にハスが自生する湿地帯でした。戦時中は防空緑地になっており、昭和37年より公園として事業着手され、大阪市が周辺の土地を買い足したりしていました。本格的な造成工事は昭和四五年から始まり、その頃盛んに行われていた地下鉄工事の残土や建築廃材、また家庭からの廃棄物、いわゆる『ゴミ』など、トラック215万台分で埋め立て、大阪市内最高峰、標高45メートルの鶴見新山を築き上げました。そして平成2年の花博に向けて100億円以上の事業費をかけて今のきれいな鶴見緑地になったのでした。
 そういえば子供の頃、「夜に緑地のそばへ行くと火の玉みたいなもんが光ってるけど、あれはゴミから出たメタンガスが燃えてるだけや」と、知ったかぶりの友達が言うてました。
「20年前の引っ越しの時にゴミと間違うて捨てた財布が見つかってん」 「へえ、どこで」 「昨日、嫁はんとうちのポチ連れて鶴見緑地を散歩してたら、ここほれワンワンみたいに吠えるんで、ユンボで5メートルほど掘ったら出てきてん」 「そら良かったなあ」 「ええことないねん」 「なんで」 「財布の中のピンサロのサービス券、嫁はんに見つかってしもてん……」 というように、今でも鶴見緑地の地下を掘り返せば、昔捨てた想い出みたいなものが出てくるかも知れませんよ。

(寺崎正也)

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て 寺方提灯踊り

伝統芸能ここにありさる

 守口市郷土芸能『寺方提灯踊り』の最初は素手で始まります。そして、途中から紅提灯を手にして乱舞し、提灯の火を消さないところに特徴があります。この独特な踊りは、昭和47年の全国郷土芸能祭の際、NHKテレビで全国に紹介されて有名になりました。  この提灯踊りの起源は江戸時代に遡ります。旧寺方荘を始めとする12カ村の地域は、低湿地帯で排水が悪く、常に水害に悩まされていました。寛永11年(1634年)、庄屋の喜左衛門が農民を救済するために閘樋の設置を幕府に嘆願しましたが、許されず、意を決して無断で設置したため処刑されました。  人々はこの喜左衛門への報恩と慰霊のためにこの踊りを極秘に行ったと伝えられています。また、明治15年にはその徳を慕って建碑され、毎年命日(3月15日)に法要が営まれています。
 郷土のために命を懸けられた先覚のこの気高い行為を市民の誇りとし、この踊りを貴重な文化遺産として継承していくことが郷土を愛する意識を高めることになります。
 そのような意味から注目されるのが、この寺方提灯踊りを保存する運動に取り組んでいる『寺方提灯踊り保存会』です。この会は昭和四六年に創設されて、寺方提灯踊りの保存・継承に努力し、その成果を守口市民まつり等各種行事で披露しています。
 また、昭和54年に『寺方だんじり囃子保存会』が結成され、平成元年に『だんじり』が大修繕されました。だんじり囃子に使用している大太鼓は、文政12年に池田屋善兵衛によって作られたものです。
 昭和62年10月に姉妹都市提携をしているカナダのニューウエストミンスター市のトム・ベーカー市長が守口に来られた際にはベーカー市長がだんじりに乗られて楽しい一時を過ごして頂いたこともありました。
 このように、寺方地域には地域に根づいた伝統的な行事が若い世代に受け継がれています。守口のような都市部では珍しくなっているこのような運動をとりあげ、そのあり方を参考にして、ふるさと意識を持たせる運動に結び付けていく工夫が求められています。

(岡崎隆彦)

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と 東海道五十七次守口宿

ご存じですか守口の歴史さる

30 守口にはいつ頃から人が住み始めたのでしょうか。
 守口の歴史は、八雲遺跡の発掘調査により出土した遺物から縄文時代までさかのぼることができます。その後、弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸・近世へと引き継がれてきたと考えられます。
 その古代からの膨大な歴史の時間の流れの中で、そして守口市内にある数々の歴史的文化財の中で、時代を江戸時代、場所は東海道ということに焦点を絞って、守口の歴史についてお話をしたいと思います。
 守口は江戸時代、大坂と京都を結ぶ京街道(または大坂街道)の宿場町であったことは多くの人が知っています。しかし、京街道と言うのは東海道の一部であり、一般旅行者や街道の民衆が大坂と京都の間を特に京街道または大坂街道と呼んでいたことは余り知られていません。また、東海道の宿場は品川宿から大津宿の五十三次と思われていますが、本来は徳川幕府が公称した東海道の宿場はこの五十三次に伏見宿・淀宿・枚方宿、そして守口宿の四つの宿場を加えた五十七次が東海道の宿場でありました。  なぜ、東海道が江戸日本橋から京都三条大橋までの街道で、宿場が品川宿から大津宿までの五十三次と言われるようになったかの理由としては、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や安藤広重の『東海道五十三次』の浮世絵が広く庶民に親しまれたために、民衆の間でそのように理解されることになったからと考えられています。
29 そして、この東海道(京街道)は、現在京阪守口市駅の北側に一段高くなった文禄堤の上を通っていました。
 この文禄堤は、文禄3年(1594年)に伏見城を築いた豊臣秀吉が、同5年(1596年)2月、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家、の三人に命じて、淀川堤防を修築して、伏見城と大坂を結ぶ道路としたもので、その長さは約27キロメートルといわれ、京・大坂間の交通に画期的な変革をもたらしました。
 関が原の戦(1600年)によって覇権を確立した徳川家康は、幕藩体制を維持することを目的に、江戸の日本橋を起点とする『五街道』として、東海道・中山道・甲州道・奥州道・日光道を整備し、各街道に宿場を設け、幕府道中奉行が直接支配、管轄しました。
 そして、各街道に宿場が設置され、守口は1616年、徳川幕府により東海道の宿場まち『東海道守口宿』に定められました。
 幕府は将軍・大名・外国人・幕府役人に脇街道を通行せずこの東海道を通行することを義務づけていましたので、江戸時代、多くの大名行列が、この文禄堤を行き交いました。時には何千人もの大名行列が通り、当時の守口のまちが宿場まちとして、活気を帯びていたことが想像されます。
 現在、守口宿の中心であった竜田通には、今はその面影を偲ばせるものは余り在りませんが、難宗寺や白井さんのお宅が今でも当時の面影を偲ばせています。
 西暦2001年に東海道は400周年を迎えます。守口は1616年12月18日に東海道の宿場まちとなったので守口にとっては2016年かも知れませんが。そのような時代をむかえるに当たり『文化都市守口』の文化を織りなす一本の糸である歴史、その一コマである江戸時代に、この守口が東海道の57番目の宿場であったという事実を今後とも大切にしたいと考えます。

(江端豊和)

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と 東洋紡バレーボール部

君は大林を見たかさる

 いや〜、凄い人がわが町にやってきたものである。全日本女子バレーボール代表のエース、大林素子選手が守口にやってきたのです!!Vリーグの東洋紡とプロ契約を結んだ彼女は今のところ日本で数少ないプロバレーボール選手の一人である。その彼女が外島町の東洋紡体育館で練習に励み、また時には守口の町を徘徊してるという噂も耳にする。早速、目撃者の証言を聞いてみよう。 「たまたま、東洋紡体育館の隣のスーパーにヤンママウォッチング……じゃなくて買い物に行ったときに見たよ。テレビで見るよりだいぶ別嬪やったで〜!!」(Nさん 三十才 製造業) 「見たわ〜、大林さん、京阪百貨店で。自分に合いそうな靴、一生懸命、探 してはったみたい……」(Tさん 32才 広告業)
 このように続々と現れる目撃者。大林選手は今やまぎれもなく、我々と同じ地元の一員だ!!(ほんまかいな?)
 1998年度を目標に、日本バレーボール協会はプロリーグの実現を目指している。つまりわが守口にプロチームができるかも。頑張れ、東洋紡オーキス!!君は大林を見たか!!

(岡田善雄)

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と 鳥飼大橋

国初の有料橋さる

31 現在の鳥飼大橋(北行・守口から摂津)は、昭和29年に完成しました。しかし、それより7年前の昭和22年に鳥飼大橋は完成していたのです。ただしそれは木造の小さな橋であり、まだ淀川左岸側(守口側)の道路が未整備であったためにそれほど重要視されませんでした。  その後左岸側の道路整備が進み、自動車交通の発達につれて既設の長柄橋と枚方大橋だけではいよいよ間に合わなくなってきたため、両橋の間、淀川中流部に架かる橋として鳥飼大橋が注目され、2年の歳月を費やして新橋が建設されました。なお、木造の旧橋は昭和35年まで新橋とともに使用されていました。
 新しい鳥飼大橋は、昭和31年から昭和39年までの間は全国初の有料橋として日本道路公団が管理していました。(その後大阪府に移管されました)有料道路橋であった間は、私が生まれてから小学校3年生までの間です。記憶にはほとんど残っていませんが、広報誌に載っている料金所の写真を見ると当時の思い出がかすかによみがえってくるようです。
 昭和45年の大阪万博開催に伴う大阪中央環状線の開通により橋がもう一本架けられ、昭和29年開通の橋は北行に、この年開通の橋は南行として使用されています。交通の便が良くなったことで工場・倉庫の移転や宅地化が進み、当時の鳥飼村は昭和31年に合併により三島町になりました。橋の交通量は格段に増加し守口には車があふれる結果となりました。昭和39年4月の無料化も予定を大きく繰り上げての実施だったとのことです。
 そして平成6年にはモノレール用の橋がかかり、平成9年に開通の予定です。今後とも鳥飼大橋は南北交通の道路・鉄道の中心的役割を果たすものと考えられますが、昼間の渋滞がやまない橋を見るにつけ私にはのどかであった『有料橋』の時代がなつかしく感じられます。

(児玉慶典)

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ど 土居商店街

土居商店街をぶらりさる

32 京阪土居駅と地下鉄太子橋今市駅の間の商店街は5つの商店街からなっておりそれぞれ名前が違うのですが、そんなことはおかまいなしに誰もがひとまとめに土居商店街と呼んでいます。
 以前からアーケードもあり、道路のカラー舗装も非常に早かったようです。このカラー舗装ができた当時は、非常に珍しくてかっこ良かったと記憶しています。しかし、雨の日や清掃等で路面が濡れていると、摩擦係数が非常に下がり、この上を自転車で通行する時のスリルといったらたまりません。高齢者や女性がよく転倒していたものでした。(現在は改善されました)
 その一角に超高層10階建の市営団地が建っております。この団地は日吉町と金下町という二つの町名が共存しており、お隣りと壁を隔てて隣町となってしまうので、別の町でありながら同じ建物の中のお隣りさんへ郵便が配達されるのでありました。また、団地に囲まれた3階には、盆踊りができてしまうほどの広場があるのを恐らく皆さんは知りますまい。

(篠原拓男)

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