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ゆ 有名人

守口の有名人一挙公開さる

 さて、それではここで私の知っている守口の有名人を一挙に紹介してみましょう。まずお笑いジャンルでは吉本興業の池乃めだか、元ザぼんちの里見まさと、のりおよしおの上方よしお、太平サブロー、スポーツジャンルではボクシングの辰吉丈一郎、六車卓也(現在はミズノの社員さん)、柔道でバルセロナ五輪銅メダリストの立野千代里(柔道を始めたのは守口第二中学時代三年生の終わり頃)、大相撲では元大関の前の山(現在高田川親方)、同じく剣晃(庭窪中学・守口高校出身)、野球では元阪神タイガースの福間納、芸能・音楽ジャンルでは金田町出身でとんでとんでの円広志、ふたりの愛ランドの石川優子(秀才で高校は四條畷高校)、四季の歌の芹洋子(三郷幼稚園出身)、バイオリニストで木崎前市長のひ孫の五嶋みどり。どんどん続きまして、経済ジャンルではご存じ松下電器の創業者の松下幸之助、三洋電機の井植薫、歴史ジャンルでは大塩平八郎の乱の大塩平八郎、平八郎の弟子で、平八郎に経済的援助をした白井孝右衛門、寺方の庄屋で命にかえて村人を水害から守った喜左衛門、同じく藤田の庄屋で命とひきかえに村人を水害から守った弥次右衛門、文化ジャンルでは日本南画界の巨匠で守口市の名誉市民である直原玉青、作家の江戸川乱歩、司馬遼太郎、野坂昭如(寺方に住んでいた)、備前焼陶芸家の吉延豊丘、写真家のアンダ知宏、同じく写真家の藤田浩、 箏曲家の須山知行、飴細工職人の石割定治……。(以上敬称略)
 以上、ざーっと勢いで書き並べさせて頂きましたが、「オレが載ってへんで」とお怒りのあなた、ここはぐっと堪えてください。私の娘も近所ではかわいいことで有名ですが、ページの都合上我慢して載せていないんですから。
 この本の表紙はイラストレーターのよしおかアコさんに描いて頂きました。もちろん守口の住人です。アコさんは小学校の頃、あの石川優子さんと一緒に守口市少年少女合唱団で、一緒に歌を歌っていたそうです。アコさん、素敵なイラストをありがとうございました。
 守口にはまだまだいっぱい有名人がおられることでしょう。とっても有名人、ちょっぴり有名人、知る人ぞ知る有名人、自称有名人。こんな人達がごちゃごちゃと一緒になって暮らしている守口が、私は好きです。

(水谷治人)


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よ 淀川

三十石船から京阪電車へさる

 守口市の北側を流れる淀川。きれいに整備された河川公園には野球場やテニスコート、陸上トラックや広場があります。犬の散歩に来た老夫婦、ジョギングをする若者、サッカーボールで遊ぶ子供達。この緑あふれる場所には老若男女を問わず、たくさんの市民が訪れます。また河川敷沿いにある東洋紡の工場跡には大きなマンション群が建ち並び、新しい守口の住人達が住んでいます。古い歴史のある守口市ですが、このあたりは新しい守口市の顔と言っても良いでしょう。何かのアンケートで『守口で一番好きな場所はどこですか』という問いに、河川敷公園が一番になった記憶があります。(ちなみに2位は守口市駅前、3位は鶴見緑地が選ばれています)
 今では休日になると釣りをする人やジェットスキーをする若者達でにぎわう淀川ですが、江戸時代には京都と大阪を結ぶ大切な交通網でした。この淀川を三十石船が行ったり来たりしていたのです。この三十石船、京都は伏見から出発して大阪は天神橋南詰めに着きました。途中枚方あたりが真ん中で、くらわんか船などが三十石船に近づいてきては食べ物や飲み物を売っていたそうです。下りの所要時間は8時間、上りは10時間。今にして思えばゆっくりとした優雅な旅ですね。
 ところが明治4年、造幣局でつくった貨幣を京都へ運ぶために淀川丸という汽船が走りだしました。これが川蒸気が大阪を走った最初だそうです。その後船場の商人が淀川汽船会社を創って二隻の川蒸気で定期航路を開きました。下り3時間半、上りは6時間です。これで三十石船は姿を消しています。
 しかし、この川蒸気の時代にピリオドを打ったのが明治43年に開通した京阪電車でした。今では伏見から天満橋まで急行で40分。この時から交通の主役が川から陸へと変わったのでした。
 なお、現在淀から屋形船がチャーターできますので機会があればこののんびりしたタイムトリップを楽しんでみても良いのではないでしょうか。

(水谷治人)

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ら 来迎寺

幽霊の足跡は男性か女性かさる

 佐太の天神さんの隣に立派な門構えの来迎寺があります。私が来迎寺を知ったのは以前テレビでやっていた恐怖シリーズの番組だったと思います。あまり幽霊とか信じないタイプなのですが、 『幽霊の足跡がある守口のお寺』ということで記憶に深く残っていました。幽霊っていうのは四次元の人達?であって、私達のいる三次元では幽霊を目で見ることができても触れることはできない透明人間のような感じで、足のないものと思っていたのですが、足跡を残したということを聞いて、「それじゃあ幽霊が体重計に乗れば針は動くのだろうか……」以前そんなことを真剣に考えていた私でした。
 今回お寺で住職さんにこの古い歴史を持つ来迎寺の由来、幽霊の足跡の由来など、たくさんのお話しを伺いました。実物も見せて頂き、250年ほど前のものなのにくっきりはっきり残っている足跡に最初はこわごわだった私ですが、『恐い』というよりは『不思議』というのが正直な感想です。親切でやさしい住職さんの足跡のお話しはテレビで見たようなおどろおどろしいものではありませんでした。 「皆さん幽霊には足がないとおっしゃるが、地に足がついて生活していない今の人達こそ幽霊なのではないですか。しっかりと地に足をつけて生きていかんとあきませんね」という住職さんの言葉が心に残りました。ところで幽霊の足跡は果たして男性か女性か。答えは直接来迎寺に行って確かめてみて下さい。玄関前の大きな老松、石造十三重塔、そして何よりも自然の音以外一切しないこの静かな空間は、 疲れたあなたの心をリフレッシュしてくれることでしょう。
 幽霊の足跡は法要日のみ一般公開されます。(1月7日・3月21日・4月14〜15日・8月7・23日・9月21日・10月28〜29日)お問い合わせのうえお出掛け下さい。

(土川純子)

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れ 蓮根

花も実もある蓮根さる

 この頃はあまり見かけなくなった守口の蓮根畑。私の父は寺方で農業をしています。今では稲作を少ししているだけですが、三五年以上前にはこの寺方で蓮根を作って出荷していました。その父から聞いた守口のレンコン話を少ししたいと思います。
 蓮根の種類は備中(岡山)と加賀(石川)があり、守口では収穫量の多い備中を作っていたとのことです。北河内はみんなこの備中であったようです。また、北河内で蓮根の産地として有名だったのは、茨田浜(まったはま)・三島(みつじま)・桑才(くわざい)・北島(きたじま)・寺方であったとのことです。守口・門真で蓮根が有名になったのは、蓮根作りに適した下田(しもだ)という低湿の土地が多くあったからと思われます。  私の覚えている蓮根畑は今では住宅が立ち並んでその面影はありませんが、守口高校の前の道を少し南に下った西側のところにありました。話は横道にそれますが、この守口高校はその前には京阪高校と呼ばれていました。その前身は戦前に守口の地元の人が作った私学の商業学校から始まっているとのことです。
 話は蓮根に戻って、蓮根掘りは八月の新蓮(しんばす)から始まり翌年の5月頃まで行われましたが、一番蓮根がおいしいのは正月の後先で、その頃が蓮根の最盛期です。私の5才頃の記憶では蓮根掘りは冬の寒い寒い時期であったように思います。私の父も最盛期には毎日泥まみれになって夕方暗くなるまで蓮根掘りをしていました。その掘った蓮根を、田圃(たんぼ)の端に作った小さな水溜まりで節を折らないように(節の折れていない綺麗なものは値が高い)気をつけて洗って、4〜5本を二貫目程度の束にして藁(わら)で荷造りをし道の端に積んでおくと業者が取りに来ます。その頃守口では『カネサダ』と『アメリカ』と呼ばれていた業者が(主人がアメリカに行って来たような話をするので、そのような通称になったということですが)競っており、父はいつもどちらにどれだけ出すかを思案していたように記憶しています。
 蓮根は泥土の中から備中鍬(びっちゅうくわ)という柄の短い鍬と短い鋤(すき)を使って、腰まである長靴を履いて田圃の土を端から全部耕し蓮根を掘り出すので、大変な重労働だったようです。また、掘り出す時に前述のように節から折れてしまうと値段が下がるので、なかなか慎重に掘り出す必要があったようです。
 蓮根は夏になると花を咲かせます。皆さんご存じの蓮(はす)の花です。その花が終わると花の根元の部分が膨らみ実がなります。それを私達は『バンチョ』と呼び、その中に6〜7粒ぐらいのドングリのような物が入っていて、その外の皮を剥いて中の実を食べます。それが私の楽しみで、父の採ってきてくれたバンチョを4畳半の畳の上に一杯並べたことを覚えています。
 農家にとっては重要な現金収入であったようですが、最盛期が真冬であったので、掘ることも私が手伝った(5才の本人はそう思っていた)蓮根の水洗いも、凍りつくような水と凍りつくような北風(田圃の周りに風を避ける建物もなく)の吹きさらしの中での農作業で、大変つらい仕事であったようです。そのお陰で私はこうして楽しく日々を過ごし、こうして立派な?大人になることができました。父と母に感謝。

(江端豊和)

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わ 渡し船

懐かしの渡し船さる

 今から20年前まで、摂津市鳥飼と守口市佐太の間に淀川を挟んで『鳥飼の渡し』という渡し船が行き交っていました。
 保有されていた2隻の渡し船は3トン8馬力の木造船で『鳥飼一号』『鳥飼二号』という名称がついていました。実際に動いていたのは『鳥飼一号』のみで、あと1隻は予備でいつもつながれていたと記憶しています。とてものどかな風景でした。
 運航時間は午前6時30分から午後7時まででした。乗客は一日あたり平均して少ない年で95名、多い年で136名が利用していました。
 高校生のころ、よく淀川の堤防から渡し船を見ていましたが、高校を卒業し、大学の1回生を終えた頃にはその姿はありませんでした。休止というかたちでその役目を終えていたようです。
 しかし、約1年後に大阪府岬町淡輪の『大阪府立海洋センター』を訪れたとき、偶然にも『鳥飼一号』が展示されているのを発見し、久しぶりで友達に会ったような気がしました。

(寺崎正也)

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わ わんど

自然の宝庫さる

 子供の頃、学校から帰ると「ただいま」、「行って来ます」と間髪入れずランドセルを放り投げて近所の友達と大急ぎで自転車に飛び乗り、網とセルビン(透明の円筒状で中にサナギ粉などの集魚剤を入れ池などに沈め魚を捕る道具)を持ち淀川のワンドへ行く。まずはセルビンのセット、中にサナギ粉を入れ、重りになる小石も3〜4個一緒に放り込み、後はタコ糸をつけ、静かにワンドの底に沈め待つこと約30分、その間バッタやコオロギ、カマキリを捕まえたりと時間を潰す。「そろそろ、もう上げてもええんちゃうかな?」宝物でも引き上げるように、期待に胸は高鳴り、目はランランと輝き、そうっとタコ糸を引く。セルビンの中はサナギ粉が溶けて水が薄茶色に濁っているが、モロコなどの小魚が泳いでいるのが確認できる。「やった〜」。このような遊びで靴はおろかズボンや下着まで泥まみれになり、日が暮れるまでいろいろな魚やエビ、亀をとってはあくる日、学校へ持っていき得意満面で友達や先生に見せては学校の池に放すという楽しくまた懐かしい思い出いっぱいのワンドでの遊びだった。
 このワンドは大阪市旭区に所在し、城北自然地区の淀川左岸に大阪工業大学の裏あたりから赤川鉄橋手前まで約15個のワンドを形成している。
 ワンドは全国的にも大変珍しく、ここ淀川だけの特有のものであり、その昔、治水や舟運の為に作った『水制(流れに垂直に突き出した石積み)』に長い年月のうちに土砂が溜まってできた池で大きさや形、低質など様々なものがあり、いろいろな生物が棲みやすい条件を兼ね備えているのです。
 ここワンドには現在も天然記念物のイタセンパラやアユモドキのほか50種類に及ぶ淡水魚が生息し、淡水貝、水棲昆虫だけでなく昆虫や鳥なども生息する生物の宝庫であり『日本の自然百選』にも選らばれた生きた博物館として大切な文化遺産です。
 これを読まれたあなた、一度、あのころの無邪気な童心に還って網とセルビンを片手に持って、麦藁帽子をかぶり、長靴を履いてワンドに出掛けてください。
 もうとっくの昔に置き忘れてしまった子供の頃のあの思い出を探し出すことができるかも……。

(津田勝之)

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